だいたい47度

やりたかったことはファシリテーションだった
僕は小さいときからアカデミックな世界に生きようと思っていた。素質や志向が研究者向けというポジティブな理由と、内向的で興味のあるものしか見えないというネガティブな理由とから。

その決断になんの疑問も持たず暮らしていたが、大学院の博士課程(後期)まで進学し研究室の人的マネジメントを始めると、研究よりもそれに魅了されてしまった。研究と就職の板挟みになりくすぶっている学生が、環境を整えてあげることで実力を発揮できるようになっていく過程はとても魅力的だった。特に、彼ら彼女らが自分の能力をフルに使えるようになったときの輝くような目を見るのが好きだった。

面白かったのは、僕独りが積極的に働きかけるのではあまり効果がなく、彼らとよく話して解決策を導き出し実行したときはじめて、仕組みは機能するということだった。自分が触媒のようになって組織の力を何倍にもするというのはとてもやり甲斐のある仕事だと思った。

数週間悩んだ末、大学院を中退し、ビジネスの世界で生きることにした。「人が力を発揮できる環境作り」をやってみたいと思ったからだ。研究の世界でも環境作りはできるが、ビジネスの世界の方がそういった仕事に専念できる。環境作りの最も強力なツールはIT技術だと思ったので学習を開始し、また環境作りを勝手にしやすいスタートアップベンチャーに就職した。

それから数年後、気がつくと僕は「人の能力を引き出す環境作りをしたい」という目的を忘れて仕事をしていた。あれだけ悩んだ決断の最も基礎的な部分だというのにだ。人員が足りないスタートアップベンチャーでは、絶え間なく仕事が発生する。しかも自分がやることを誰も知らないことも多いため、1つずつ学習を重ねていかなくてはならない。あまり社会的でない自分の性格も事態を悪くしたと思う。いずれにせよ、仕事に忙殺された僕は当初目的を忘れていた。目的を忘れてしまったことで、僕は社会生活を続けていくのが辛くなってきていた。

そんな中、「ザ・ファシリテーター」という本を読み、自分のやりたいことを思い出した。

「ザ・ファシリテーター」は、日本のビジネスの世界を舞台にした小説の形式を持ってファシリテーションを説明した本だ。ファシリテーション(facilitation)とは、複数の人間が連動するときの様々な障害を取り除き協働を促すスキルのことである。リーダーシップ・マネジメントとあわせてこの3つが集団リーダーには求められる。ファシリテーションの通り一遍の説明を聞いても、なかなか具体的にイメージしづらい、もしくは理想論に過ぎないと思われるかもしれないのだが、「ザ・ファシリテーター」は小説として具体的なファシリテーションの様子を示すことで、ファシリテーションを納得行く形で説明することに成功している。

この本を読んで、3つの大きなことを僕は学んだ。第1に「ファシリテーション」という具体的な名称を知った。元々僕がやりたいことは「マネジメントのようなそうでないような……」といった曖昧なものだったのだが、「ファシリテーション」という言葉を知ったことで、自分のやりたいことの像に実体が生まれ、それを調べる方法も手に入れたのだ。第2にファシリテーションに必要なスキルの内、自分に足りていないものが見えてきた。一番足りていないスキルは頭の中の考えを誰でも分かる図に落としこむスキルだ。このための知識がないと、複数の人間の頭の中を整理することは難しい。第3に適度な休憩がよい議論には必要だということだ。アイスブレイクと呼ばれる会議中の小休止は、凝り固まった頭をほぐすのに使える。様々なアイスブレイクを知っていることもファシリテーション能力の1つともいえる。アイスブレイクは面白いので個別に調べてみてもよいと思う。

こうして具体的な目標が復活したことで、僕自身も復旧した。大目標を見据えて前を見るようになった結果、そのためのステップも見えてきて、毎日が楽しくなってきた。長いスパンでの人生設計が見えてきた。詳しいことはある程度調べがついた時点でここに書くかもしれない。

とりあえず直近ではファシリテーションを中心に据えて、学習を進めてみようと思う。「ファシリテーション入門 (日経文庫)」は読んだが、入門と書いてある通り、概略をつかむのや復習するにはよいものの、「ザ・ファシリテーター」の方がファシリテーションとは何かが血肉となって見えると感じた。一方、このブログでも前述した「あなたのチームは、機能してますか?」などはファシリテーションという言葉は出てこないものの参考になると思う。


ザ・ファシリテーターザ・ファシリテーター
(2004/11/12)
森 時彦

商品詳細を見る
このエントリーをはてなブックマークに追加
チームが機能しなくなっていく過程
自分の属しているチームは、チームとして機能しているだろうか?

この質問は非常に答えづらい。まず、躊躇なくYESというのは難しい。少なくとも僕の属してきた団体ではYESと断言できるチームはなかった。チームメンバー全員がチームを最大限に活かす行動をとっていると言い切ることはなかなかできなかった。しかしその一方、完全にチームとして破綻している、というわけでもなかったと思う。どのチームも、集団としてまとまっていて、居心地は良かった。そんなわけで、YESとは言えないけれど、NOとも言い切れない。

質問を変えてみよう。自分の属しているチームは、どうなるとチームとしてもっと機能するだろうか?

これは色々と思いつく。それぞれの長所を活かす。フィードバックを互いに返す。隠し事をしない。相談をする。知識のトランスファーをする。学習をしそれを共有する。etc, etc……。

しかし「それをどうやって行うか」になるとまた難しくなる。隠し事をしないようにしましょう、などと言ってもしょうがないし、隠し事をしたら罰金ですなんてルールもうまく機能しなそうだ。

有用なアクションが思いつかないのは、チームが機能していない理由が明確でないからだ。細かい理由はいくつも思いつくが、それらが体系的な理論に落ちないため、抜本的な対策が立てられない。

パトリック・レンシオーニ著「あなたのチームは、機能してますか?」はチームが失敗する要因を5つの段階に体系化した本だ。前半の200ページでは、架空の企業を使ってバラバラの経営チームが新CEOの元でチームワークを作り上げていく様子が描かれ、その背景のモデルを最期の30ページくらいで説明する形式となっている。

この本の5段階モデルは、チーム機能不全を体系的に把握するのに使い勝手がよい。「それは○○チームのことだから知りません」「ほら言ったじゃん、それはダメだって」「××さんはいつもあぁで面倒だから抜いて話そう」。これらがどうしてチームワークを壊しているのかが体系的に説明できる。


1 第一の機能不全は、チームのメンバー間の信頼の欠如である。これは本質的に、グループ内で弱みを見せようとしないことから来ている。チームのメンバーが、互いに自分のまちがいや弱みを隠そうとすると、信頼の基盤をつくることはできない。

2 信頼を気づけないことが問題になるのは、それが第二の機能不全、衝突への恐怖を生み出すからである。信頼の欠如したチームは、腹を割って激しく意見をたたかわせることができない。あいまいな議論や慎重な発言が多くなる。

3 健全な衝突がないと、チームの第三の機能不全、責任感の不足をまねく。チームのメンバーは、オープンな激しい議論のなかで意見を出さなければ、会議中に表面的には同意しても、本当にその決定を支持し責任感を持つことはできない。

4 本当に責任をもって支持する姿勢がなければ、チームのメンバーは、第四の機能不全、説明責任の回避に走るようになる。明確な行動計画に責任をもって取り組んでいなければ、いくら集中力と意欲をもった人でも、チームのためにならない行動や態度をとった仲間をとがめるのに躊躇することがある。

5 互いの説明責任を追求しないと、第五の機能不全がはびこる環境が生じる。結果への無関心が起きるのは、メンバーがチーム全体の目標より個人のニーズ(自尊心、キャリア開発、評価など)や自分の部門のニーズを優先させたときである。

(「あなたのチームは、機能していますか?」p. 208)


同僚を会社のパーツと見るようになり人として見なくなると、意見を戦わせることが億劫になる。すると会議を開いたとしても、チームとして何かを決めるのではなく、誰々と誰々の間で物事が決まるということになる。それ以外のメンバーからすれば、自分がコミットしたことではないので約束を守るコミットメントもないし、失敗しても知らないよ、といった空気になる。全体を俯瞰した視点がなくなる。というふうに5段階はそれぞれつながっている。

逆にこれをひっくり返してやれば、どうすればチームワークを築けるかのヒントになる。例えば、チームメンバーの人間性を知ることがすべての始まりであることが明確にわかる。すると、飲み会の意義もわかるし、逆に飲み会でなくても目的を達成する方法も思いつけるだろう。

僕は上記のモデルも使い勝手が良く一見の価値があると思ったが、それよりも面白かったのは新CEOが経営チームを立てなおしていく「手法」だ。新CEOキャスリンは経営チームメンバーたちと議論を重ねてチームワークを形成していくが、どうしても必要なとき以外はなるべく黙っているスタンスを貫く。キャスリンが結論を誘導するのではなく、メンバー同士がぶつかり合って結論を出していくことを望んでいるからだ。そうやって出た答えはメンバー全員が納得行くものとなる。

自分は発言を促したり議論の流れを整理・修正したりに特化することで、メンバーの議論を活性化させ、組織の協働を促進することを「ファシリテーション」と呼ぶ。ファシリテーションは、リーダーシップとマネジメントに並ぶ指導者に必要なスキルの一つとされ、当事者同士が解決方法を編み出せるようになることから、時代の流れが早くなり現場の決定力が大事となった現代では特に注目されるスキルである。

キャスリンはファシリテーティブなリーダー像としてうまく書かれており、その視点と5段階モデルの視点をかけあわせて小説部分を読むと深みがでて面白かった。ファシリテーションについては自分の中でいま最もホットな話題なので近いうちに取り上げたい。


あなたのチームは、機能してますか?あなたのチームは、機能してますか?
(2003/06/18)
パトリック・レンシオーニ

商品詳細を見る
このエントリーをはてなブックマークに追加
ダーウィン進化論だけでは説明にならない生物の「かたち」
ハチの巣は非常に精密な六角形からなっている。
ただ面を埋めるのであれば三角形でも正方形でもいいはずだが、なぜ六角形なのだろうか?

ダーウィンは、ハチの巣は「労働と蝋を節約するためには完璧だ」と断言したという(90p)。一定の大きさの平面を埋めることを考えると、三角形や四角形に比べて六角形は、辺の総長をかなり節約できる。つまり巣室の断面積が同じであるならば、六角形を用いることで壁の面積を抑えることができ、壁を作るための蝋や労働=エネルギーを節約することができる。

ダーウィン的な物語でいえば、ハチは適応によって六角形の巣を作るようになったことになる。様々な形で巣を形成するハチがいる中で、六角形の巣を作るハチは巣作りのエネルギーを抑えることができたため、他のハチが淘汰されていくなか生き残ったのだ。ハチには六角形の巣を作るための遺伝子があり、それが選択されたということになる。

しかし、ハチの巣が六角形である説明にダーウィンの進化論を持ってくる必要があるのだろうか?

ダーシー・トムソンは、ハチは物理的な組織力に頼るだけで、精密な六角形の巣を構築しうると主張した。例えば、ストローをシャボン液に突っ込んでプクプクと吹いてやると、六角形のシャボン壁でできた表面ができあがる。単純に表面張力だけで六角形はできるのだ。であるならば、ハチの巣もただ物理的な事象の結果として六角形になっているだけなのではなかろうか。

結果的にトムソンの主張は間違っていた。ハチは生理的に120度の角度を測定できることが示され、更にハチの巣には他にも地磁気や重力が勘案されていることも示されたのだ。それらはハチが遺伝的に獲得した能力だった。

ハチの件に関しては間違っていたが、トムソンの主張は示唆的である。すなわち、生物の形態や行動はあまねくダーウィンの進化論で説明できる、というのはあまりにも単純化しすぎているのではないか。進化論は「なぜそれが選ばれたか」は説明するが、「どんな選択肢がありうるか」については何も述べない。そこに関して注意を払わないと、進化論とインテリジェントデザインはあまり変わりのないものとなってしまう。生物の形態に対して「それが最適だから」は説明としては片手落ちなのだ。

前置きが長くなったが、「かたち: 自然が創り出す美しいパターン」は数理・物理的視点から、生物の形態について迫っていく本だ。上述のハチの巣の話から始まり、シマウマや熱帯魚、チーター、キリンの模様や、巻貝の形、コロニーが描くパターン、キャベツのしわしわの葉やカボチャのボコボコした実などについて、数理的にどう説明できるかが書かれている。すべてを遺伝子のブラックボックスに投げず、数理・物理的に可能なことを明らかにすることで、生物の謎に対するアプローチは本質的になる。

最初の3章では、パターンは生物依存のものではなく、自然発生的にも生じることを見ていく。リーゼガングの環やBZ現象(下記動画)などを説明し、自己触媒反応と拡散反応が起こる際には、同心円・らせん・縞模様などのパターンが発生することを説明する。

では、パターンは自然発生しうるとして、それがどうしてシマウマの縞に落ち着くのだろうか。ここでアラン・チューリングが出てくる。彼はモルフォゲンと呼ばれる化学物質が組織内に拡散し、遺伝子のオンオフを切り替えることで組織内にパターンを作りうると考えた。モルフォゲンには2つの重要な点がある。自己触媒反応を起こすため活性のゆらぎが大きく増幅されることと、抑制因子が活性因子の拡散より速いスピードで拡散されることだ。詳細は省くが、この数理モデルのもとでは、活性因子が活性化される領域が斑点や縞模様のようになるため、遺伝子発現にパターンを生じさせることができる。

このモルフォゲンの数理モデルを軸に据え、「かたち」ではおびただしい量の事例を取り扱い、それぞれに説明を試みていく。上述したような話の他、植物の葉がどうして日光を浴びやすいように交互に生えるのかについてや、チーターの尾が付け根はブチなのに先は縞の理由についてなど、バラエティに富んでいる。しかも、軸であるモルフォゲンの数理モデルに関しても「あくまでもモデルとしては説明できる」というスタンスを崩さず、他の考え方に関しても紹介してくれるため安心して読んでいられる。図が豊富なのも嬉しい。



この本で一番衝撃を受けたのは、界面活性剤からできる膜が自動的に共連続相を作る話だ(p.135)。僕は生命科学系の大学院で生体膜の構成成分と形状の話を研究していた。しかし当時は、遺伝学的アプローチばかり考えていたからか、その周囲の論文は読んでも、数理・物理的なアプローチは頭に浮かんだことがなかった。

もし当時数理的アプローチを知っていたら、もっと違った形での研究もできたかもしれない。この僕の浅学無知は、単に僕が学生だったからというだけではないように思う。主要な分子生物学系論文雑誌はほぼすべて目を通して関連記事は読んでいたはずだし、専門で研究していた助手の先生との議論でもその視点は出てきたことがないからだ。だが、外から見てみれば当然やるべきアプローチに思える。どっぷり一つの世界に沈み込むことも大事だが、意図的に外側とつながる意識も持った方がよいようだ。

同じようなことはどんな仕事にも言えるだろう。仕事関係の本を読むことも大事だが、離れた領域の本を読んだり、離れた世界の人と触れ合ったりすることが、意外と大事なのかもしれない。広く様々なものを楽しんで、何かに固執しないようにしよう。


かたち: 自然が創り出す美しいパターンかたち: 自然が創り出す美しいパターン
(2011/09/09)
フィリップ・ボール

商品詳細を見る
このエントリーをはてなブックマークに追加
50光年を光速で移動すると何年かかる?
「20歳の人が光速に限りなく近い速度のロケットに乗り、地球から50光年離れた場所に着いた時には何歳になっているだろうか?」
ニュートン力学においてはこの問題の解は70歳強であるが、相対性理論によれば解はもっともっと若くなる。

特殊相対性理論の基本について簡単にまとめてみよう。

ガリレオ・ガリレイは「絶対運動はない」と説いた。あらゆる運動は、基準となる物質に対する相対的な運動でしかありえないというのだ。世界の絶対的な基準などどこにある?これは僕らの生活上の認識にもあうため、理解しやすい話だ。このことから考えると、速度というものは誰から観測した時の速度なのかを記述しないと意味がないことになる。

その一方で、マクスウェルの弾きだした光速の式には、発生源の速さも受け手の速さも現れていなかった。このことはガリレオの話とあわないように思われる。この矛盾に対して当初は、エーテルと呼ばれる物質が宇宙を埋め尽くしており、光速はエーテルに対する相対的な速度だと考えられていた。しかし、マイケルソンとモーリーの実験によってそれも否定され、ガリレオとマクスウェルの話は真っ向から対立する形となってしまった。

そこで出てくるのがアインシュタインの特殊相対性理論である。彼は光速は観測者によらず一定であるという仮定をもって思考を始めた。

まず有名な思考実験である光時計実験が行われた。光時計とは、光が距離αだけ離れた二つの鏡の間を上下に反復移動して、その反射回数によって時間をカウントできる時計である。さて、それを持って電車に乗ったとしよう。動いている電車の中で時計を見ていると光が100回往復した。このとき電車の中の人からみると、光は100αの距離を移動したことになる。同時に、電車の外から光時計を見ている人がいるとしよう。その人から見ると、電車の移動に合わせて鏡も移動していくため、光は一回反射するごとにαより長い距離(α+⊿α)を移動することになる。つまり100回往復したときには、100α+100⊿α移動したことになる。

光の速度は観測者によらず一定と仮定しているにも関わらず、観察者によって光の進行距離が変わってしまっている。この問題をアインシュタインはこう解釈した「観測者に対して相対運動する物体においては時間がゆっくり進むように見える」。光速をcとすれば、電車の中の人が100α/c秒と感じる時間を、電車の外の人は(100α+100⊿α)/c秒と感じる。時間も絶対ではないのだとアインシュタインは喝破した。

更にここから面白いことがわかる。電車の外から見て電車が毎秒Xメートル進むとすると、(100α+100⊿α)/c秒後には、(100α+100⊿α)X/cメートルの距離を進むことになる。しかし電車の中の人にしてみれば、この時間は100α/c秒であり、距離的には100αX/cメートルしか進んでない。よって電車の中の人は空間が縮んだように見える。時間も空間も絶対的なものではないのだ。

一般的な入門書だと、特殊相対性理論の解説は上記のような流れとなる。今日読んだ「なぜE=mc2なのか?」という本も先頭の1/3を同様な解説に充てている。この本も物理学をなるべく数式を使わず説明してみようという本の一つである。

しかし、この本の主題は、題名の通り「E=mc2」(質量に光速の二乗をかけたもの=エネルギー)というアインシュタインの代名詞とも言える数式の意味を説明することであり、特殊相対性理論の説明はその前段階に過ぎない。また邦題では隠れてしまっているが、本来の題名why does E=mc2?(and why should we care?)という題名の通り、だから何?というところまで説明を試みており、核分裂・核融合からビッグス粒子、時空の歪みまでを数式を使わず説明しようと企てている。

この本が数式を除いて説明に成功しているか、というと、部分的にのみ成功しているという回答になる。特に、途中までは数式をほとんど除いた形で説明できているにも関わらず、クライマックスの一つであるE=mc2の導出を数式変換に頼ってしまうのは少々残念だった。中途半端な形で数式を導出してしまったため、むしろ説得力にかけるように感じるところもある。

それでも、なるべく数式を使わず説明しようと苦心していることは、丁寧すぎるくらいの書き方に現れている。そのため、物理学の本であるにも関わらずスラスラと読める。同時に、広範囲に関して意欲的に言及している本であるため、近代物理学の地図を頭の中に描くのにはちょうど良い本である。僕も多少知識があるものの宙ぶらりんとなっていた範囲の話について他の領域との関連性がクリアになったし、次に知りたい分野に目星も着けることができた。先日読んだサイモン・シンの宇宙創成 (新潮文庫)の副読本のような形としてもよいかもしれない。


なぜE=mc^2なのか?なぜE=mc^2なのか?
(2011/08/29)
ブライアン コックス、ジェフ フォーショー 他

商品詳細を見る
このエントリーをはてなブックマークに追加
生物学者だったころの僕について
小中学校で習う理科のうち、生物が嫌いだった。

物理も化学も演繹的な考え方をするのに対し、どうも帰納的な学問に思えたのだ。演繹的な考え方をするのであれば、基本理論をマスターすればその上での世界を理解できる(仮説に基づく世界ではあるが)。一方で帰納的な考え方は、積み重ねていくことで徐々に世界を理解していくことになる。努力が嫌いかつ若くて積み重ねたもののない僕は、帰納的な世界が嫌いだった。高校になってもその考えは変わらず、生物は一切選択しなかった。

大学に入ってみて、その見方が変わった。僕のいった大学では、最初の1-2年間は文理あわせて様々な講義を受けることを求められた。せっかくなので毛嫌いしていた生物学の世界も眺めてみて驚いた。DNAからタンパク質生成にいたるセントラルドグマあたりの解析が進み、生物の世界も演繹的なアプローチが可能となっていたのだ。そんなのは数十年前からの話なのだが、小中ではそんなことは教えてくれないし、僕はあまり本も読まない性質だったので知らなかった。

そうなってくると、生物学はとても面白い学問に思えてきた。生命とはなにか、というのは非常に魅力的な質問だ。知れば知るほど、その問題は遠大な問題であることに気づく。当時ヒトゲノムも解読されるなど、素人目には道具も揃ってきているように見えたので、僕の大学後期は生物学を主体にやってみることにした。

そのまま数年間、大学院の博士課程まで分子生物学をやってみたのだが、色々考えた末、中退した。基本的には「他にやりたいことができた」というポジティブな理由なのだが、それについては長くなるので割愛する。ネガティブな理由として、自分のやっている研究が枚挙主義、帰納的学問の一端に過ぎないのではないか、と思ったことがある。

僕は酵母を使ってあるタンパク質の機能を研究していた。その研究が成功すれば今までにない経路の発見となるし、しかも教科書上すでにそこの研究は概ね終わっているとされている分野であったのでインパクトもそれなりに大きい研究であった。しかし、そこから先の展望が僕にはできなかった。新しい経路の発見は新しい研究を産み、科学は発展するだろう。ただ、それらの知見を積み重ねることが本当に生命の理解につながるのか、分からなくなってしまった。

いまから思い返すと、僕の研究計画の立て方がまずかったのだと思う。僕の嗜好の場合、最初に大きく解きたい問題を立て、それへのアプローチ方法を考え、小さな作業に落として実行していく研究をすべきであった。しかし、実際は「いまある道具や環境から何ができるか」から考えてしまっていた。擁護をするのであれば、研究にとりかかり始めた当初では何ができるのかも分からない訳だから、世界的に何が面白くて解けそうな問題なのかを知ることは難しいだろう、とは言える。ただ、自分の知識の限界を感じつつも、その思考を常に続けることはいつだってできたはずだ。

こんなことを思い返したのは「ロマンチックな科学者 世界に輝く日本の生物学者たち」というちょっと古い本を読んだからだ。この本では、一流の生物学者たちが若き研究者へ向けてのメッセージを数ページずつ寄稿している。

内容としては、専門的な話はなるべく省き、自分が科学に対してどう思っているのか、何が自分の研究する動機となるのか、自分の行ったことで成功につながったことや失敗につながったことは何か、ということが書かれている。ごく数人の著者の文章は修士レベルじゃないと理解しにくいかもしれないが、多くの筆者の文章は生物に疎い人でも読めるような内容だ。専門外の人にとっても、何十年にも渡る問題解決へのアプローチの歴史を見てみたり、学者とは日頃なにをやっているのかを知れたりして面白い本だと思う。

ただやはりこの本は若い研究者や研究者志望の学生に読んで欲しい。特に実験系の研究生活は土日もなく朝から晩までの視野を狭窄させるが、目先の研究結果に引っ張られて、自分はなぜ研究しているのかを見失ってはならない。ノーベル生理学・医学賞をとったマックス・デルブリュクはこう言った「科学者の中にも将軍と兵士がいる。優れた兵士が必ずしも将軍にならない。将軍になる人はロマンチックだ」。

関連して、特に気に入った部分を引用する。この部分はどんな仕事に関しても成り立つ話だ。

オリバー・ホームスという人が、人間の知性を三つに分類している。“一階建ての知性”は事実を集めるだけのファクト・コレクターで事実の背後にあるものを見ようとしない。“二階建ての知性”は、事実を比較したり、一般化したりすることを試みる。“三階建ての知性”は天窓つきでイマジネーションがあり、理論を完成する能力をもっている。学術雑誌をみても一階建てが多く、三階建ては甚だ少ないとも述べている。(186p)



この本を学生のときに読んでいたら、僕の現在は変わっていたのだろうか。


ロマンチックな科学者―世界に輝く日本の生物科学者たちロマンチックな科学者―世界に輝く日本の生物科学者たち
(1992/07)
井川 洋二

商品詳細を見る



【追記】まだ読書中の本だが、生命とは何か―複雑系生命科学へという本は、生命とは何かということについて考えるべき幾つかの大きな疑問について掘り下げ、そのアプローチを具体的に示している本でとても面白い。生命観が変わると思う。ただこちらはそれなりに知識を必要とする(筆者は高校レベルの知識でいいと言っているが、それはかなり厳しいだろう)。
このエントリーをはてなブックマークに追加
Designed by aykm.