だいたい47度

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空気に支配されないために人の愚かさを知る 「赤めだか」

落語家・立川談春の「赤めだか」を読んだ。談春が立川談志に弟子入りするところから真打になるところまでを綴ったエッセイだ。落語家というのは文章運びもうまいのだろうか、何度か声を出して笑ってしまった。

「落語は人間の業の肯定」と立川談志は言った。人間は愚かで自分勝手でいい加減なもんだが、それを認めてやるのが落語だと。「赤めだか」に描かれる弟子時代の談春も実に適当だ。褒められれば調子に乗り、辛ければサボり、大事な日に限って寝坊する。ただそれでも本人は真剣にやっていることが伝わってくるから面白い。赤めだか自体が「人間ってそういうもんだよね」と笑わせてくれる落語らしいお話だ。

落語の世界において、師匠と弟子は主人と召使のような関係だ。弟子は師匠に絶対服従というのが不文律となっており、家の掃除や買いものといった雑用も弟子の仕事となっている。師匠がカラスが白いといえば白いと考えなくてはならない世界なのだ。それを認識してまで弟子入りしたいのだから、落語の師匠というものはとても魅力的な人物なのだろう(少なくとも弟子たちにとっては)。

そこから考えると当然だが、赤めだかに描かれている立川談志は魅力的だ。彼はイエモトという空気に支配されることもなく、ひたすらに自分の言葉で語る。空気を読めるが、空気に流されない。談志の家で一門が飲み会をしている中、ふとしたことから弟子の一人(真打)が談志に噛み付いたときのこと。

「私は、私は……」
真打は全身をふるわせながら絶叫した。
「夢金だったらいまの師匠より私の方が上手い」

こんな場合の談志は怖いくらいに冷静だ。瞳の形すら変わらないように見える。
弟子の分際で師匠に向かって無礼なとか、酔った上での話だから素面の時にゆっくり話そうという選択肢は全くない。うつむいて談志は黙って考え込んだ。誰一人言葉を発するものはいない。立ったままの真打は涙ぐんでふるえていた。(中略)「夢金なら俺の方が上手い」と云った真打は勿論馬鹿ではない。誰もが認める技量の持ち主で、しかも夢金は彼の十八番とされている、だからこそ、あえて「夢金なら俺の方が」と根多限定で叫んだ想いの重さに、談志がどう応えるか、全員固唾を飲んで見守っていた。
実際には一分足らずの時間だろうが、談志が黙っている間がとてつもなく長く感じた。

「あらゆる角度から考えてみたが……」
つぶやいた談志の口元を全員が注視する。身体全部を耳にして聞きもらすまいと身を固くする。談志は何と云うのか。緊張の一瞬。
「俺の方が上手い」
ボソッ云った。


このシンプルかつ最善の回答をできるだろうか。空気に思考を侵されないというのは、人間の愚かさを認めた上ではじめてできることなのかもしれない。


赤めだか赤めだか
(2008/04/11)
立川 談春

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おまけ。
最近読んだ漫画。粋な男たちが出てきて、歌舞伎らしい落ちがつく。なんとなく「赤めだか」と同じカテゴリにいれてみたくなった。浮世絵師・歌川国芳の話。サッパリした読後感。

ひらひら 国芳一門浮世譚ひらひら 国芳一門浮世譚
(2011/11/29)
岡田屋 鉄蔵

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「ハーモニー」と文明への猜疑

SF好きの友だちに勧められて伊藤計劃の「ハーモニー」を読んだ。

僕たちは文明の力によって生々しい人間の暮らしから離れて生活することができている。たとえば、身近に死を感じることもなく生活しているにもかかわらず、毎日肉食できることなどがその一端だ。この状態に対する座りの悪さを表すために、文明の力を増大させた近未来を描く展開は物語のひとつのモデルである。

「ハーモニー」も序盤はその方向で話が展開する。体内に埋め込まれたナノマシンが常に身体の状態を監視・修復してくれるため、病気や怪我がない世界。食事や仕事の管理を行う健康コンサルタントが個人ごとについているため、太っている者も痩せている者もおらず全員が同じ体格。体内ホルモンの異常分泌に関してもナノマシンが警告を出すので、感情の大幅な起伏はなく、人間は平穏・安静に暮らすものという空気が支配した世界。

この息苦しさを感じる世界の破壊を試みるのは、例によって境界人である少女たちだ。子どもでもなく大人でもない彼女らは、大人の世界に反目するために飢餓による自殺を図る……といったプロットが序盤の流れである。王道とはいえ世界観がよくできていて、ここまででも面白く読める。

しかし「ハーモニー」の本当の面白さはその後にある。文明の力によって物質世界を支配した現代社会と、その延長上にある自らの身体をも支配した未来社会。普通の小説では現代社会での物語が展開され、普通のSFでは未来社会での物語が展開される。それに対して「ハーモニー」では、文明支配の範囲が未来社会から更に一段進んだところが物語の中心となる。SF世界の更に未来、言ってみればSF世界の中でのSFが描かれる。

文明の支配は究極的にはどこを目指すのか。そしてその結果は人間にとって幸福なものなのか。現代ですら感じる文明発展への懐疑は何を予感しているのか。「ハーモニー」はその結論のうちの一つを明確に示した。


ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
(2008/12)
伊藤 計劃

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時間をつかうことで時間を節約するということ

社内でjavaのペアプログラミングをやらせてもらった。ペアプログラミングとは、2人のエンジニアがペアとなって1台のPCでプログラムを共同開発する手法で、利点としては、互いに相手を見る間は割り込みのない集中した時間をとりやすいこと、見られている意識から妥協のないコードが書けること、知識のトランスファーができることが挙げられる。僕はプログラミングに詳しくないので、スキルの非常に高い人と組ませてもらって知識のトランスファーをしてもらった。

そして、たった半日ペアプログラミングをやっただけで僕は多くのことを学ぶことができた。しかもその内容は技術側ではない人間も意識すべきだと思われるものも多かったので、次の社内会議のときに内容をまとめて発表させてもらうことにした。そこでまず練習がてら内容をここにまとめてみようと思う。前提条件として、僕の会社はベンチャーなので全員仕事に追われているのが常態化していることを覚えておいて欲しい。

僕が学んだことは主に3点だ。

1 手を動かす前に頭を動かす時間をとる
2 一定のタイミングで検証する時間をとる
3 単純作業の練習時間をとる


1 手を動かす前に頭を動かす時間をとる
仕事が振られると、振られたままの形の作業をしたくなる。しかしその前に「なんでこの作業がふられたのか」を考える時間を取り、依頼者が本来望んでいるものを把握するべきだ。すると、たとえ作業時間が足りなかったとしてもポイントを外すことはなくなるし、作業中に不足の事態に陥っても全体の骨格が見えているので立て直しが容易になる。場合によっては、本来頼まれた作業よりも簡単な作業で相手の要望を満たせるかもしれない。

これはプログラミングでいうとインターフェースと実装をきちんとわけることにあたる。僕のような初心者は、最初から少しずつ実際に動くものを書き始めてそれをつないでいくような、直線的なプログラミングをしがちだ。すると、何か途中で間違いがあったり、仕様の変更があったりすると、全体を見返しながら修正やその影響を考えていかなくてはならず、ツギハギだらけの複雑なコードになってしまう。

一方、ペアプログラミングにおいては、まずどういったものを作るかの図を作成し、それぞれのパーツに関して中身のない型(実装のないインターフェース)だけを次々と作っていった。その後型を埋めていく形でプログラミングをしていく形で作成が進んでいく。すると、たとえ戻りが発生しても修正するのは該当パーツの型のまわりだけであり、修正は容易で全体のことを考える必要もほとんどない。

作業時間に追われていると次々と業務をこなしたくなるが、状況を見えるようにする時間を少しとるだけで、むしろ全体的な作業時間は削減することができるのだ。

2 一定のタイミングで検証する時間をとる
一つの仕事を「作成→検証→修正」という流れで見ると、まずは一気に「作成」を終わらせて、全体的に「検証」してから「修正」に入るということがやりたくなる。それが最も「作成」が早く終る=仕事が早く終わったように見えるからだ。しかし、一気通貫で作成を終わらせるのではなく、一部分を作成したら検証・修正を行うことを繰り返しながら、徐々に全体を作り上げていくべきだ。

一気通貫に作成を終わらせてから検証を始めたとしよう。そして問題が見つかったとする。するとまず、何が問題なのか探しだすために全体を走査しなくてはならない。そして次に、直そうとしたときにどこに影響があるのか見極めまくてはならない。更にもっともまずい場合として、直すなら全体的な枠組みを変えなくてはならなくなっていることを見つけるかもしれない。一度完成したものを修正するというのは大変なのだ。

一方、何かを作成するたびに検証を行うフローをいれてみよう。するとまず、間違いを探すのが容易である。今作ったばかりのもののどこかに間違いがあるからだ。次に直すのも容易だ。直すのは同じく今作った範囲だけなのだから。万が一、全体的に間違えているということ=今までの前提条件が間違っていたことが発覚したとしたら、たしかに全部やり直しになるだろう。しかしその場合も、最も早い時点で前提条件の間違えに気づけたことになる。

この短いスパンでの検証は、正直面倒でしょうがないのでルール化しなくては続かない。短期的に見れば作業を遅くしているように感じるし、何より「そんな単純なところで間違うわけがない」とみんな思っているからだ。だが人は驚くほど単純なミスをする。そしてダムに開いた穴のようにそこから決壊する。だから、なにかしらのルールを決めて短いスパンでの検証をおこなうべきだ。プログラミング的には常にコードとテストを並行して作っていった。

3 単純作業の練習時間をとる
仕事を素早くやらなくてはならない場合、自分の持っているスキルだけを使いたくなる。知らないスキルを学習するにはコストが掛かるし、その学習コストもどのくらいかかるのか見えないからだ。しかしその考え方では自分の処理速度は向上せず、いつまでも忙しいままだ。そのため、仕事の中でも学習という観点は持ち続けるべきだが、特に「最も単純な作業」に関しては意識して学習をすすめるべきだ。

「最も単純な作業」を練習するのはつまらないし、効果が薄いように見える。たとえばショートカットキーを使ってできる作業のことを考えてみよう。ショートカットキーのある作業は、ショートカットしなくても数秒でできる一方、慣れていない場合はキーを探すことに時間を取られることになる。つまり、覚えたところで効果は薄いし、覚えるためのコストが作業時間に対して大きいように思える。

しかし、「最も単純な作業」こそ高速化すべきものなのだ。複雑な仕事と違って学習が容易な上、汎用性が高いからだ。ペアプログラミングでは、ショートカットキーがある作業は必ずショートカットを使うというルールを課してみた。すると思っていたより簡単に身体は覚えていくことに気づいた。最初は全く覚えられず間違ったキーを押してしまうが、数回で意識せず実行できるようになる。

プログラミングの設計などは一朝一夕で身につけられなくても、ショートカットキーなら一日で概ね使えるようになる。そして余計なことに時間や頭を使うことがなくなれば、難しいことを理解する時間と余裕が生まれる。学習効率・仕事効率をあげるのに最もよい方法の一つは単純作業の効率化なのだ。数学が苦手な人が最初にやるべきなのは算数のドリルをひたすら解くことだ、というのと同じ理論だ。時間の初期投資を少し掛けることで、最終的なアウトプットは何倍にも膨れ上がる。

まとめ
要するに「長期的な視点で時間を使おう」ということになる。忙しいとどうしても視野が狭くなるし、特に時間に関してはシビアになると思う。しかし、上で見てきたように短期的な時間稼ぎは長期的には損なのだ。

このことはペアプログラミングを行った結果からもいえる。今回のような形のペアプログラミングは、スキルが高い人が僕と組んで作業をするのだから、一時的にその人の作業効率を下げることになる。しかし長期的に見れば僕の書こうとするコードの質は大きく変わっただろうし、プログラミング以外の仕事に関しても示唆が得られて僕の仕事スタイルに大きな影響を与えた。そのことは教えてくれた方にもプラスの効果をもたらすだろう。

そうはいっても時間を作るのは中々難しい。だからこそ、取るべき時間を明示化し仕組み化することが重要であると思う。自分の仕事の中で、特定のタイミングに時間を割く仕組みを作るよう考えてみてはどうだろうか。

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「イシューからはじめよ」と要領がよいとはどういうことか

「イシューからはじめよ」を読んだ。生物学とマッキンゼーを行き来するという異色の経歴を持ちながら、現在はYahoo!のCOO室室長をやっている安宅和人さんの本。ヒットした自らのブログ記事を元に書き上げた本のため、結果的にこの記事が本書のよいサマリとなっている→圧倒的に生産性の高い人(サイエンティスト)の研究スタイル

この本の白眉はなんといっても、「バリューのある仕事とはなにか?」を明らかにする第一章だ。著者はバリューのある仕事かどうかは2つの軸で決まると言う。すなわち、「イシュー度」と「解の質」だ。「イシュー度」とは「自分のおかれた局面でその問題に白黒をつける必要性の高さ」を指し、「解の質」とは「問題に対してどこまで明確な解を出せるか」を指す。「解の質」を上げるための本は数多く存在するが、「イシュー度」という軸は新鮮である。

一般的に「バリューのある仕事」というと解の質が高いものを指しがちだが、イシュー度に注目することで本当にバリューのある仕事を短時間で行うことができる、だから問題を解く前にイシュー度の高い問題を見極める時間をとれ、と著者は説く。

イシュー度を無視して問題に取り組むことは、激務なのに結果が伴わないという結果になりがちである。イシュー度が高い問題は全体の2-3%しかないため、ランダムに取り組めば多くはイシュー度の低い問題とぶつかることとなる。イシュー度が低い問題は幾ら解の質を上げたところでインパクトがないため、受益者にとっての価値はゼロに等しい。しかも問題は数多く存在するわけだから、それらすべてに回答するとなると非常に大きな労力がかかる。そのため、薄いバリューを幾重にも積み重ねるような形となるし、疲弊していく内に薄いバリューを出すことすら難しくなっていく。その中でたまたまイシュー度の高い問題にぶつかったとしても、まず解くことは難しいだろうし、解けても解の質を上げられる可能性は著しく低いだろう。

反対に、イシュー度が高い問題を探し出しそれだけに注力することで、短時間でバリューの高い仕事を行うことができる。イシュー度の高い問題を探す時間は一時的には遠回りの時間となる。しかし、一度イシュー度の高い問題を見つけ出すことができれば、もともとイシュー度の低い問題に費やされていたリソースをすべてイシュー度の高い本質的な問題に費やすことができるようになる(2-3%しか存在しないなら30-50倍のリソースをつぎ込むことができる)。よってバリューの高い問題を解ける可能性は大きくあがると予想され、時間当たりのアウトプットは劇的に増加すると考えられる。

確かにこれは的を射ている指摘だと思う。例えば、仕事をしていると「○○をやってくれ」という依頼を受けるが、ここで手を動かす前に、どうしてその依頼をやってほしいのかを考えてみると、本来やりたいことはもっと単純であることが分かることは多い。その結果、実際よりも働いていないのに依頼主に想定以上のアウトプットを渡せる、という場面を僕の短い社会人経験の中でも何度も見た。忙しくなると頼まれたことを「どうやってこなすか」と考えてしまいがちだが、一歩離れて自分が取り組むべき問題は何かを考えることは強力なアウトプットを産み出すのだ。

第一章でイシューを見極めるという考え方を展開した後、第二章から五章の間には問題解決のフローが明瞭かつ簡潔に書いてある。ここが「解の質」を上げる部分にあたり、その内容は概ね、仮説思考などの良くできた本には書いてある内容だが、その中に著者の鋭い視点が織り込まれていて飽きさせない。

例えば第三章では「分析とはなんだろう?」と疑問を投げかけてくる。なかなか面白い質問である。「分析とは分けること」「分析とは数字で表現すること」といった間違った回答を論破した上で著者の出す回答は簡潔だ。「分析とは比較、すなわち比べること(p.150)」である。とても簡にして要を得た説明であり、その視点があるだけで「何かを示すためには対象物がなくてはならない」と概念ことが頭にスッと入ってくる。

頭のよい人が仕事が早いのは、処理能力が高いからというよりも要領がよいからなのだ。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」
(2010/11/24)
安宅和人

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「パブリックスピーカーの告白」と自分をみる恐怖

講演家スコット・バークン著「パブリックスピーカーの告白」を読んだ。彼のテレビ出演や海外講演の話などがエッセイ風に書かれており、プロのパブリックスピーカー(講演家)の生活を垣間見ることができる。

この本で僕が一番よいと思ったところは、人前で話す自分の姿をありのままに受け入れようと思わせてくれたところだ。

大勢の前に立って話すことは非常に恐ろしいことだ。多数の人間が自分一人に注目している異常な環境では、普段は気にならないような言い間違いがとても気になり、聴衆の一人がアクビをしていれば焦り、「あー」や「えー」で時間を稼ぐ間に頭をフル回転して次の言葉を探すことになる。

プレゼンに慣れない頃、発表するたびにひどく打ちのめされた僕はロジカル・プレゼンテーションなどの本を読み、プレゼン資料の質を上げることにした。僕の話を全く聞かなくても、プレゼン資料を読めば意味が取れるようにしたのだ。この方法はなかなか強力だった。自分のプレゼン内容を聴衆が理解していると思うと、口も動作も滑らかになり、より理解しやすいプレゼンが可能となる。そうこうする内に、大抵のプレゼンに対して恐怖感を覚えることはなくなった。

しかし一方で、どうもプレゼンの次のステップが見えなかった。特に問題なくプレゼンができるものの、人を惹きつけるようなプレゼンかというと決してそうは言えなかった。それはプレゼンのための呼吸や動作の作法を学ぶことで解決できるようなものではないように思えた。

そんな中、本書の「すぐに得ることができる専門的フィードバック」という項目が僕の目を引いた。フィードバックの方法は簡単である。ビデオで自分が講演する様子を取り、それを見るだけだ。確かにこれ以上の簡単かつ完璧なフィードバックはないだろう。しかし僕は同時にそれを怖いと思った。

僕は発表自体は怖くなくなっても、発表している自分の姿を見るのは怖かった。下手に技術に走ることで、自らの能力を省みることから無意識的に逃げていたのだ。満足は成長を止める。自分の成長を止めていたのは自分だった。

この本は様々な話がパラパラと書いてある。概ね精神的な話だし、どうも冗長な部分も多い。そのためハウツー本としては使えないだろうが、自分のプレゼンに関してなにかしらのヒントを見つけるためにはよい本だ。また時間が経ったら読んでみようと思う。

パブリックスピーカーの告白 ―効果的な講演、プレゼンテーション、講義への心構えと話し方パブリックスピーカーの告白 ―効果的な講演、プレゼンテーション、講義への心構えと話し方
(2010/10/27)
Scott Berkun

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「宇宙創成(下)」とみんなが好きな宇宙の話

前回に引き続き、「宇宙創成(下)」を読んだ。上巻の基礎を元に、下巻ではとうとう宇宙創成について話が展開されていく。最終的には、原始のスープが爆発することで宇宙が作られていくモデル「ビッグバンモデル」が科学界の主流となるのだが、下巻はこの「ビッグバンモデル」と「定常宇宙モデル」の論争が一冊を通して展開され、決着がつくまでのストーリーとなっている。

この「定常宇宙モデル」というのが実に面白い。このモデルが登場した当時は、あらゆる銀河が地球から離れて行っていること、つまり宇宙が膨張していることが示されており、それを逆に考えることでビッグバンモデルが提唱されていた頃だった。しかし一方で、ビッグバンが起こったと想定される年代が、幾つかの星よりも若いという矛盾が指摘されていた(後年、観測ミスであったことが明らかになる)。

そんな中「定常宇宙モデル」が提唱される。ある一時点に宇宙が始まり膨張を続けていると考えるビッグバンモデルに対して、定常宇宙モデルは宇宙が無限の過去から存在し、将来的にも大きな変化は起こらないと考える。一見このモデルは宇宙が膨張していることと相反しているように見えるが、発想を変えることでこの問題を解決している。すなわち、宇宙が膨張してできた隙間には新しい銀河が誕生すると考えるのだ。すると、宇宙は膨張を繰り返していながら、全体としては定常状態を保つことができる。無限の空間に一定のパターンで銀河が存在するような宇宙が描き出されるこのモデルは、(最終的にはビッグバンモデルに敗れるものの)とても美しいと感じた。

この定常宇宙モデルの提唱者の一人、フレッド・ホイルは特にユニークな人物だ。当時「力学進化モデル」と呼ばれていた彼のライバルモデルを馬鹿にするために「ビッグバン(大爆発)」という言葉を使ってみたら、ハマリすぎてみんなが使うようになり、結局ライバルモデルの名付け親になってしまったなんてエピソードもある。

彼の仕事で特に面白いものは、どうやって重い原子が宇宙に存在するようになったのかを解明した仕事だ。当時いかなるモデルにおいても、水素とヘリウム以外の原子が生まれる過程を説明することができなかった。その中、ホイルはあらゆる原子についてその方法を解明した。すなわち、星が崩壊する際に、その中心が非常に高温・高圧になることで核融合が起こり、重い原子が作られることを示したのだ。更に崩壊した星が爆発することで、重い原子は宇宙中に散らばり、そこに他の原子が集まることで新たな星が生まれる。

星が崩壊する際にレアな原子を作り出し、それが新たな星のもとになり、その星が崩壊するときには更に重くレアな原子を作りだす。太陽もどうやらそうして生まれた3代目の星であるらしい。星がまるで命をつないでいくような様はなんとなくロマンチックにも感じる。

宇宙の話には誰もがワクワクする。不思議なものだ。

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)
(2009/01/28)
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「宇宙創成(上)」と新しい理論に必要なこと

サイモン・シンの「宇宙創成(上)」を読んだ。「宇宙創成」は亀や象の上に地面が乗っている時代から、ビッグバンモデルが主流になる時代までの流れを書いた科学ノンフィクションである。上下巻なので両方読んでから感想を書くべきかもしれないが、上巻だけでも考えさせられることがたくさんあったので、いったんここで立ち止まってみる。

上巻の三つの章では、ビッグバンモデルが現れるまでの科学的な歴史を概観している。すなわちビッグバンモデルを理解するための基礎作りがされていくのだが、その地固めでさえも興味深い内容に溢れている。第一章では天動説から地動説へのパラダイムシフト、第二章では古典力学から相対性理論へのパラダイムシフトが描かれ、第三章では天文学の進化により人々の宇宙観がどう変わっていったかが描かれている。

第一章・第二章では、今まで主流だった理論を覆すドラマが展開される。文中で何度も強調されるように、科学者といえども常識や主流の理論を覆すことには強い忌避感を持つ。今では一笑に付されるだろう天動説も、その当時の常識から考えるともっともらしいものだ(彼らは万有引力の法則を知らなかったので、あらゆるものが地上に落ちるのは宇宙の中心たる地球の中心にモノが吸い寄せられるからだと思っていた)。更にその理論の上に人生を掛けて研究をやっているのだから、確かに新しい理論に対しては狭量な態度にもなるだろう。

では新しい理論を世間に認めてもらうためにはどうすればよいのだろうか。もちろん今までの理論を内包する形でなくてはならないが、それ以外にもう一つ満たさなくてはならない要件があると筆者はいう。

新しい理論をまじめに受け止めてもらうためには、その理論は二つの重要なテストに合格しなければならない。一つは、すでに行われている観測のすべてと合う理論的結果を出すことだ。(中略)第二のテストはいっそう厳しく、まだ行われていない観測の結果を予測しなければならない。(p.197-198)


この第二のテストについてはあまり考えたことがなかった。確かに予知ほど人を信頼させるものはないだろう。実際、コペルニクスの地動説は金星の満ち欠けを予測して実証することで天動説を覆し、アインシュタインの相対性理論は光が太陽によって大きく曲がることを予測して実証することでニュートンの物理学を超えた(特にアインシュタインのテストは日蝕の時しかできず、結果的に宇宙規模のショーの中でアインシュタインがニュートンを超えることとなり、その様子の描写は読んでいて背筋がゾクゾクした)。

第三章では、銀河はただ一つしかないのかという大論争を中心に据えて、天文学の進歩が描かれている。第三章では、決して触れることができない距離にある天体を調べる道具が徐々にそろっていくことで人々の宇宙観がどんどん変わっていく様子が描かれているが、第一章・第二章のドンデン返しというよりも漸次的な進化という印象を受け、また違った面白さがある。

ようやくビッグバンの可能性が見えてきたところで上巻は終わる。下巻は「宇宙は永遠に続いてきたものなのか」という論争が中心となるだろう。アインシュタインでさえ固執した常識「宇宙は静的なものである」をどう崩しビッグバンモデルが完成するのか、いまから楽しみだ。

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